印象派で「近代」を読む/中野京子

 ちょっと前に読んで、メモしていたところを下書きにしていたままだったので蔵出し。

なにしろヌードは、神々やら歴史上の人物というエクスキューズがない限り許されないという、ある意味、文明的、ないし偽善が、何世紀にもわたる美術上の暗黙の了解だったからです。 (p.20)

 印象派の画家たちは、そうした知的作業によって作品を解釈されるのを嫌いました。絵を文学から、歴史から、神話から、主題から引き離し、独立させたいと願ったのです。純粋に絵として楽しんでほしいと思った。いま自分たちが見ている陽光のもとの自然、いま自分たちが体験している近代社会、いまの自分たちと同じ空気を吸っている人々をそのまま描きたい、誰が見てもすぐわかる絵を描きたい、しかもそのとき、たとえばクールベ(『石割り』)が階級社会を糾弾したように、道徳的社会的な意味を付与したり、何かを主張したりすることも避けたい、絵をもっと屈託ないものにしたい、画面から漂う空気感のようなものを、ただ味わったほしい、そう願ったのです。 (p.30)

 この一方で、印象派の弱点かもしれません。印象派嫌いは、デッサンの拙さを必ず挙げます。また描法にこだわって主題が捨てられたため、絵から物語が、ひいては精神性までも消えたことも、長く見て飽きる一因だと言います。 (p.32)

 印象派に決定的な影響を与えた二つの発明品、「チューブ入り絵具」と「写真技術」 (p.36)

 グーテンベルク印刷機ができる前、聖書は修道僧たちが手書きで写していました。大量に本が出回るようなって、写本はゴミ箱へ捨てられたか? 逆です。手書きの独特の美を持つ一点ものとして、いっそう希少価値を上げたのです。 (p.53)