いきなりはじめる浄土真宗/内田樹、釈徹宗

自由であるというのは、ひとことで言えば、人生のさまざまな分岐点において決断を下すとき、誰の命令にも従わず、自分ひとりで判断し、決定の全責任を一人で負う、ということに尽くされる。 (p.9)

本来、〈自因自果〉といって、自分のまいた種が自分にふりかかるのが因果律ですから。 (p.16)

 神さまには神さまの仕事があり、人間には人間の仕事がある。神さまは世界を創造した。創造された世界を「住むに値する場所」に造り変えてゆくのは人間の仕事である。だから、「人間が人間に対して犯した罪」は人間だけがそれを贖うことができるのであって、神が人間に変わって贖うことはできない。そういうふうに考えることのできる人間が「成人」である。 (p.25)

 でも、世の中を住み良くするのは「責任者、出てこい。なんとかしろ」と怒鳴る人間ではなく、「はい、私が責任者です。ごめんなさい、なんとかします」と言う人間です。そういう人が出てこない限り、世の中は少しも変わりません。 (p.29)

私たちは自分たちがどういう「物語」のなかにはめこまれているのかを知ることが出来ません。けれども、その「物語」をほんとうに知ろうと望むなら、できあいのどんな「物語」も軽々しく受け入れてはなりません。おのれの知性に最大限の自由を保証しようとする人間だけしか、宿命の物語に(漸近線的にではあれ)近づくことができないというこの背理こそ、私たちの置かれた「人間的事況」を端的に語ってはいないでしょうか。 (p.54)

 この「親になった」実感はなかなか経験のない人には説明しにくいものですが、「この子のために生きなければ」という強烈な使命感と、「この子のためになら死んでもいい」という爽快な諦念の入り交じった両義的な感情でした。 (p.74)

「私には分からないけれどもこのゲームを始めたものがあり、そうである以上、このゲームにはルールがあるはずだ」というふうに推論する人間の思考の趨向性を私は「宗教性」と呼びたいと思います。 (p.137)

日本人が制度宗教を苦手とするのは、その根本に「これが『ワンアンドオンリー』の完全なる宗教儀礼であって、これだけやっとけばもうザッツオーライ」という考え方そのもののうちに「神への不敬」を感知するからではないかと思います。 (p.141)

 彼岸(ひがん)の反対は、此岸(しがん)。
 六波羅蜜とは、6つの向こう岸へいく方法のことで、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の6つ。

江戸幕府は宗教統制に力を注ぐわけです。
 特に、ご存知の寺請制度。どこのイエも、必ずどこかの寺院(檀那寺)の檀家として登録されねばならない、というシステムです。そして、各宗派・各寺院が、他の宗派・他寺院の檀家に布教することは禁止されます。「各宗、共存しろ」というわけです。 (p.161)

仏教クロニクル