はじめたばかりの浄土真宗/内田樹、釈徹宗

 内田樹さんと釈徹宗さんの書簡のやり取り。それぞれの話を別々に聞いた方が面白い、つまり、1+1がそのまま2な気がした。

 というわけで、欠如が満たされ得るものが「欲求」。欠如が充足されるにつれてますます欠落感が昴進するようなものが「欲望」と呼ばれます。 (p.26)

また、日本の神祈文化において、抑圧が強くないのは、性に関することだけではありません。もともと戒律らしいものが希薄なのです。世界的に見て、どう考えても宗教性が豊かで信仰深い日本人。その日本人が宗教的要素の中で、最も苦手なのが「戒律」なのです。これはデータなどではっきりでています(逆に「儀礼」とかは得意!)。本来、さまざまな戒律が発達している仏教でさえ、日本人の手にかかれば解体されてしまうのです。 (p.51)

アジア諸国の中で比較すると、日本人はきわめて「宗教教団」や「聖職者」に対して懐疑的です。ときには笑う対象でさえあります。日本仏教文化の底力は、そこにあります。 (p.52)

 現に、宗教と国の癒着を批判するのは「宗教は人民の阿片である」と主張するマルクス主義ですが、スターリン時代のソ連を筆頭に、マルクス主義を国是としてかかげている国を見渡すと、ほぼ例外なく「現人神崇拝」が行われていて、政治イデオロギーが疑似宗教化していることがわかります。 (p.61)

その霊的な覚醒をどうやって「市民としての適切なふるまい」にリンクさせるか、ということにはたぶん一秒も頭を使っていません。逆に、「市民としての適切なふるまい」を自分たちの教理に合致するように変更しようとしました。 (p.64)

 ここで賭けられているのは、「空中に浮揚すること」の真偽ではなくて、「空中に浮揚する人がいる」ということを「事実」として認めた人間が、その内的経験と「市民としてきちんと生きること」のあいだをどうやって論理的に架橋するか、という「つじつま合わせの問題」なのです。 (p.66)

「身内」に対しては強制的に、「他者」に対しては宥和的に機能するという、宿命的な「あいまいさ」が「倫理」の身の上なのです。 (p.121)