エエカゲンが面白い/森毅

 前半は面白い。だけど、中盤以降の大学についてとかは、大学をもう去る身としてはあまり興味を持てなかったかなと。今も昔も実は話題は変わってないんじゃないかと気づかされたり。「大学サボリ道入門」あたりとかは、実に京大っぽいよなぁーと思ったよ。

ぼくなどは戦争中にお国のために滅私奉公、戦後は人民のために滅私奉公、高度経済成長には会社のために滅私奉公、といった連中を見すぎたため、Xのために滅私奉公というXには任意のものが代入可能で、そこに代入される「思想」が変わることは転向でも何でもなく、「Xのために」といった構造で発想すること、いわば<思想>とはそうした発想を生みだす人間性の方にあるのではないかと思うようになってしまった。 (p.26)

「自由には責任が伴う」などと宣う人もあるものだが、責任が伴うのは立場の論理としての権限であって、自由に伴うものは不確定性に由来する危険だけである。「権限に責任が伴い、自由に危険が伴う」と言うべきところ、概念のカテゴリーを混乱させたとしか思えない。そして、危険よりも安全保障を優先させるのが管理の発想であるからには、それは秩序にからめとられざるをえない。 (p.27)

「試験のための勉強がムナシイ」と学生が言ったという話が話題になったとき、それなら「試験のためではない勉強がやれていい」なんて意見が多かったのだが、ぼくはうっかり、「試験のための勉強って、そりゃムナシイよ。ぼく自身、試験のための勉強でなにかを身につけた記憶ないもんナ」などと口走ったため、同僚からひどくバカにされた。彼の説によると、「試験のための勉強」によってえられるのは「単位」であって、それ以上に何かを身につけようとするのはムサボリであるというのだ。 (p.65)

 上記の引用に関して。山形浩生の「要するに」の何かに書かれていたこと、つまり、投資する目的なんて、お金を増やすことだけであって、他の目的なんてないんだよ、その会社を応援するとかそういうのは関係ないからねという話を思い出した。

つまりは、「浪費的勤勉」はマイナスの評価しか与えようがない、ということだ。セッカクがんばって学校に通ったのだからとか、セッカク懸命に努力して書いたのだからとか、そんなのはツマラナイことだ。ツマラナイ努力はマイナスにしかならない。努力を認めてくれ、などと甘えるナ。世の中はツメタイノダ。 (p.69)