くじけそうな時の臨床哲学クリニック/鷲田清一

 鷲田さんの本、確かこれで2冊目。「第一章 生きがいがみつからない時に」では、仕事とは何かとか人生とは何かとかそのへんを巡るお話で、考えさせられるところがあった。つづく「第二章 いい恋愛ができない時に」では、とりあえずフロアに立てというお言葉はごもっとも過ぎて、心が痛かった。どうやったら彼女に僕は気に入られるだろうか考えてもしょうがないから、どうやったら君に僕が気に入られるかどうかの方が大切だよ、と。

団塊の世代あたりまでは、大きな志をもたなくても、自分のやっていることは必ず前の世代を乗り越えるという実感が持てた。たとえば、体は親より大きくなる。小遣いがもてるようになる。自分の部屋もある。学歴は絶対親より上だし、それに食べ物はいいでしょう。前の世代、親の世代を超えるというのが当たり前の時代だったんです。 (p.15)

「人に話せる程度の不幸があったほうがかっこいい」 (p.22)

人間は「やりがいが欲しい」といいながら、他方では「他人にとって意味がある」ことであれば、仕事はそんなにつらくないんです。だから、行動の意味づけを、「自分がしたいこと」「したくないこと」に分けること、つまり、自分の欲望とか意欲と関連づけて仕事を考えるのはやめたほうがいいと思います。 (p.30)

 自分というもののかけがえのなさは、自分のなかをのぞき込んでもなかなか見えてこない。それよりもむしろ、自分がいまここにいるということが、だれにとって、どういう点で意味のあることなのかを考えることのほうがたいせつだ。わたしのかけがえなさは、わたしではない他の人たちとのかかわりのなかから生まれるのだと思う。 (p.47)

 この点で、オルテガによるエリートの定義はふるっている。彼は言う。大衆とは「自分以外のいかなる審判にも自分をゆだねないことに慣れている」ひとであり、エリートとは「自分を超え、自分に優った一つの規範に注目し自らすすんでそれに奉仕するというやむにやまれぬ必然性を内にもっている」ひとである、と。 (p.49)

 希望のない人生というのはありえない。そして希望には、遂げるか、潰えるかの、二者択一しかないのではない。希望には、編みなおすという途もある。というか、たえず自分の希望を編みなおし、気を取りなおして、別の途をさぐってゆくのが人生というものだろう。 (p.51)

他人への思いやり、そういう要素が服からすっかり消えてしまったことを、ふとさみしく思うことがあります。 (p.165)