てつがくを着て、まちを歩こう/鷲田清一

 長かったなという印象。1つのテーマでいろいろな文章を寄せ集めたからか。はて。

 みんなとほとんど同じだけれどもちょっとだけ違うのがいい――ファッションの真ん中にいるのはこういう集団であり、横並びというのがなにより嫌い、マジョリティからいつも一定の距離をとっていたいから、みんながしているのとは違う未知のスタイルに手を出したがる――というのが、先端のひとだ。 (p.17)

 むかしは、おしゃれといえばかならずドレスアップのことだった。 (p.20)

 おもしろいのは、上昇しきったひともそれと並行した生き方をはじめたことだ。リッチなひとはほんとうの意味でのリッチさを見せつけるために、つまり努力によってではなくスマートにその生活を享受していることを見せつけるために、日焼けをファッションにした。 (p.21)

 かっこよさの本質について。

 ひとがみな同じ感受性、同じ価値観でいるときにそのノイズとなること、いわば「はずし」の感覚、それが「かっこよさ」というものの本質ではないだろうか。 (p.23)

 あなたは、毎日違った服を着て外出したいですか? それとも、同じ服を何着も買って、それを毎日着替えてたいですか? (p.27)

「僕は二十歳だった。それは人生でもっとも美しい季節だとはだれにもいわせまい」。これはポール・ニザンの『アデン、アラビア』の冒頭の言葉であるが、これがまさに旬というやつで、「青春なんて若いやつにはもったいない」と、いちども訪れなかった旬をまるで宝物のように愛でるのは、盛りを過ぎたひと、いえ、盛りに憧れつづけるひとだけだ。 (p.41)

 ひとは、じぶんの母より年上のひと、じぶんの娘よりも少し年下のひとを愛せるようになってはじめてみずからのエロスも盛りにくる。 (p.43)

 日本人は椅子に座ると足がぶらぶらして落ちつきをなくす。西洋人は畳の上で座布団に座ると足が邪魔になり、しびれも切れて、困りはてたような顔をする。 (p.64)

現代のファッションは服装や化粧が、じぶんとは別の存在になるという、そういうコスミックな〈変身〉の媒体であることをやめて、じぶんの別のイメージを演出するというただの〈装い〉の手段へと、みずからの力を削いできた、ただそれだけのことだ。 (p.74)

 他人の目に映るじぶん、それへの関心を失うとき、ひとはおそらくじぶんへの関心をも失う。じぶんのことより他人の気持ちに思いをはせること、それをわたしたちはエチケットやマナーと呼んできたが、それがまわりまわってじぶんを支えることになる。 (p.150)

 老人がその豊かな経験と知恵のゆえに尊敬される時代があった。そういう時代には、若者は早く歳をとりたいと思う。その後、確実な生産性と判断力のゆえに壮年が尊敬される時代があった。そういう時代には、みずみずしい生産力からして「若さ」がもてはやされ、「老い」にひとは不安を覚える。そしてやがて、子どもが妙に老成し、老人がいつまでもぎらぎらしているような時代が来る。この時代には、成長とか熟成というイメージがだんだんリアリティをもたなくなる。 (p.181)

 スカートについて。

 なかを見ようと思えば見ることができるようにしておきながら、見ることは許されない。「見たい?」というメッセージと「見たらだめ!」というメッセージが同時に発信され、男はくらくらする。おろおろする。で、ちょっぴり未練を残して目をそらす。するとそれに追い打ちをかけるかのように、ミニスカートやスリットの入ったスカートが眼に入る。 (p.232)