じぶん・この不思議な存在/鷲田清一

 生協に鷲田コーナーがあって,何冊かぱらぱらと立ち読みしてたら,この本のプロローグが気に入ったので、買ってみた。
 ざっくりよーやくすれば,「自分探しを巡るお話」だった.あと,平仮名がやらたと多い印象をもった.
 「自分探し」といえば,僕はこの言葉を思い出す.「自分探しに出た人がこう書き残した.『探さないでください.だって,僕より先にあなたが僕をみつけてしまったら,僕が自分をみつけられないじゃないですか』と.」出典不明.

 「われわれにとって不可能でないものを、不可能たらしめるのは、習慣である」。ミシェル・ド・モンテーニュは『エセー』の中でそう書いている。(p.44)

 このイメージが破綻したときの反動がこわい。イメージどおりにいかなかったとき、レースがとたんにがたがた音を立ててくずれてしまうからだ。人生において、ひとはじぶんの存在のすみずみにまで、一個の確定したシナリオを描き込んだら、ちょっとした計算ちがいで全体ががたがたになってしまう。だからつねにシナリオをフレクシブル(可塑的)にしておく必要があるのだ。あるいは複数のシナリオを潜在状態で起動させておくことがたいせつだと思う。物語の乗り換えというのは、けっして道徳的にとがめられるべきことではない。人生を一本の線だけでイメージするのは、それだけ人生をもろく壊れやすいものにしてしまう。(p.74)

ともあれ、じぶんを失うという事態をネガティブにばかり考えるくせから一度離れてみる必要がある。アランのあげていた例、つまり恋愛というのも、特定の他者に首ったけになって、じぶんがそれに翻弄されることを強く望む体験だったのではないか。同じ「憑かれる」なら、観念に憑かれて疲れはてるより、他のだれかに憑かれるほうはるかにいい。じぶんの時間を他人のために失うことを、わたしたちはもっとポジティブに求めていいと思う。ちなみに、「じぶんらしさ」というものは、イメージとして所有すべきものではなく、じぶん以外のなにかあるものを求めるプロセスのなかでかろうじて後からついてくるものだということを、わたしはマドンナの『SEX』から学んだ。「未知のこと、未経験のことを怖がっちゃだめよ」。マドンナはわたしたちにそう語っていた。(p.87)

 そういえば,内田樹先生も,夢を叶える方法の一つとして,夢を沢山もっておくこと,そうすれば,どれかは実現するという話をしてたかなと.